桃の天使

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 どうしよう、どうしよう!まちがえちゃった!

 

 あるところにちょっと冷たい印象のある女の子がいました。
長い髪が自慢のその女の子は、周りの人が楽しそうにお話をしていても、
自分から輪に入ったりもしなければ、話しかけられても、なんとなく全てが上の空の子でした。

 女の子の名前はエリといいます。

 ある日、エリが自分の部屋で読書をしていると、急に誰かの鳴き声が聞こえてきました。

 「えーん。えーん。」

 エリは、「どうせ外で誰かが泣いているんでしょ…」と気にもとめませんでしたが、
泣き声は十分たっても二十分たっても聞こえなくなりませんでした。

 「……うるさいわね…」

 エリは小さく舌打ちすると、軽く伸びをしてまた本を読みはじめました。

 「えーん! えーん!」

 すると、心なしか、泣き声が少し、大きくなったような気がしました。

 「……」

 綺麗な眉を吊り上げてエリはしばらく黙していましたが、だんだん不気味になってきて、
視線を少し、窓の方に向けました。

 窓には当然景色しか映っていなく、泣き声を発しそうな子供も、
ましてや幽霊もいませんでした。

 「……」

 なんとなく気分を害したエリはため息をつき、不機嫌そうに本へと視線を戻そうとして…

 なにか≠ニ視線が合いました。

 「えーん! えーん!」

 「っ! きゃあああああ!」

 びっくりしてエリは椅子から転げ落ちました。

 さっきまでは何も無かった机の上に、ピンク色のよくわからない物体が、縮こまって泣いているのです。

 エリは必死に呼吸をもとに戻そうと肩を上下させます。
しっかりとピンク色の何かを凝視したまま、肩以外は動かしません。

 「エリちゃん? どうしたの?」

 階段の下からお母さんの声が聞こえます。

 「……」

 エリは肩を上下させています。

 「…エリちゃん?」

 お母さんの声が、少し大きくなりました。

 「…な、なんでもないわ。転んだだけよ。」

 エリは呼吸を整えて返事をしました。

 嘘は言っていないわ。と心の片隅で思いました。

 「えーん! えーん!」

 結構うるさいその泣き声に、エリは

 お母さんには聞こえていないのかしら…。

 と思い、そして、なぜかやたらと気分が落ち着いてきたのを感じました。

 「…」

 「えーん…えーん…。」

 エリは学校でいるときと同じ、冷たい視線を向けました。

 「うるさいわよ…」

 きつく睨まれたピンク色の何かは、その声に一瞬ビクッとしましたが、また、さらに大声で泣きました。

 「えーん! えーん! えーん! えーっ…ごほっごほっ」

 よほどがんばって声を張り上げたためか、ピンク色の何かは途中で咳き込んでしまいました。

 ピンク色の物体が咳き込むと、エリはより一層冷静になりました。

 なんなのかしら、このよくわからない物は……幽霊?…なんてほんとにいるはずないし…
でもあきらかに人間には見えないわ。ピンク色だし、頭は尖っているし…そう、まるで

 「桃のお化けみたいだわ…」

 エリはぼそっとつぶやきました。

 「ちがうもん!」 

 さっきまで泣いていたピンク色の何かは、お化け≠ニ言われた瞬間、
がばっと顔を上げて否定しました。

 ピンク色の何かは、桃をかたどったようなぬいぐるみでした。
くりくりとした目にたくさんの涙をためてエリを睨みますが、そのかわいらしい目のせいで、
ちっとも怖くなんてありません。

 もう一度、エリがきつく睨みつけると、桃のぬいぐるみは再び縮こまってしまいました。

 「お化けじゃないもん…」

 かすれた声がぬいぐるみから漏れます。

 エリは思いました。

 ……うざいわ…。

 エリはできるだけこのよくわからないモノとは関わり合いになりたくないと思ったので、
一言だけ言いました。

 「出て行きなさい」

 氷点下でも混じっているかのような冷たい一言でした。

 桃のぬいぐるみは凍りついたようにエリを見ていましたが、やがて、また

 「えーん…えーん…」

 と泣き出してしまいました。

 「……」

 「えーん! えーん!」

 エリはしばらく黙って桃のぬいぐるみを睨みつけていましたが、
あまりにもしつこく泣き続けているので我慢も限界になってきました。

 「えーん…えー…っぎゃ!」

 桃のぬいぐるみを鷲づかみにしてガラス窓に向かって力の限りなげとばしました。

 「ごふっ!」

 エリの予想に反して桃のぬいぐるみは窓に当たって跳ね返り、エリの足元へ転がってきました。

 桃のぬいぐるみは力なく足元に転がります。

 エリは「ふんっ」と鼻をならして椅子に戻ろうとして、お母さんと視線があいました。

 「……」

 お母さんは驚いたような落ち込んだような暗い顔をして言いました。

 「エリちゃん…ぬいぐるみを投げたりしちゃダメよ。
エリちゃんはそんなことする子じゃなかったじゃない…」

 エリは顔を下に向け、お母さんにはわからないように睨みました。

 「ごめんなさいお母さん。ちょっと気が立っていたの。でもお母さん。
ノックもなしに入ってこないでっていつも言っていたわよね。」

 お母さんは少しだけ笑って言いました。

 「そうね。エリは勝手に部屋に入られるのが嫌だものね。」

 お母さんは安心したような顔をして部屋を出て行きました。

 「えりちゃん」

 エリの後ろ、足元から声が聞こえました。

 「えりちゃんえりちゃん」

 エリは向き直って桃のぬいぐるみを見下ろしました。

 「えりちゃんえりちゃんえりちゃん」

 「……ちがうわよ」

 エリはさっきまでとは少し違う、悲しそうな顔で桃のぬいぐるみを見ました。

 桃のぬいぐるみはかまわずつづけます。

 「えりちゃんえりちゃん。ボクは桃のぬいぐるみ。ボクは桃のぬいぐるみ?」

 桃のぬいぐるみは顔を下にして倒れたまま機械のように単調にいいます。

 「…なによ。」

 エリはその不思議な声の発しかたに、気味の悪さを覚えました。

 「えりえりえりえり…ボクは桃のぬいぐるみ?」

 「…私にはむしろ桃のお化けに見えるけど、はたから見たら桃のぬいぐるみね。」

 エリは「なんなのよ……」という風にため息をつきながら言いました。

 「桃、桃、桃、ボク間違えた。桃、もも、もも、ボクは桃の天使。まちがえて天使。」

 「……」

 「えりちゃんえりちゃん。えり? エリちゃん。えり?」

 「…」

 桃のぬいぐるみはゆっくり起き上がって言いました。

 「まいちゃん」

 瞬間、エリの表情が強張りました。

 恐怖に近い表情を桃のぬいぐるみに向け、無言で睨み付けます。

 「まいちゃん。まいちゃん。えりちゃん……ちがう。」

 「私は『エリ』よ……」

 冷たく冷めた笑みを浮かべ、エリは断言しました。

 すると、桃のぬいぐるみはそれまでの単調な喋り方をやめ、ゆっくりとエリに近づきます。

 そして

 「おねぇちゃん♪」

 と、今までのぬいぐるみの声でない。もっと高い声で言いました。

 エリの表情が恐怖に塗りつぶされます。

 「……っ……。私は――」

 「マイおねぇちゃん。エリは……アタシ……だよぉ?」

 くすくすと甲高い声で、桃のぬいぐるみは笑います。

 「……」

 「アタシがエリ。くすくす。そう。三年前に死んだ。アタシがエリ!」

 

 「いやあああああああ!!!」

 エリは桃のぬいぐるみの言葉に、踵を返して逃げ出しました。

 エリの表情は恐怖でいっぱい。眼には沢山の涙がたたえてあります。

 これはお化けだ!! 信じたくないけど……本当にお化けがいたんだ!!

 エリは早くこの部屋から逃げ出そうと、ドアにぶつかりました。
ノブを回し、ドアを開けようとして、さらに恐怖しました。

 「っなんでっ!? なんで開かないのよ!!」

 ガチャガチャと、いくらノブを回しても、精一杯引いてもドアはびくとも動きません。

 「おかあさん!! あけて!! あけてよ!!」

 ドンドンとドアを叩き、お母さんに助けを求めます。

 「おかあさん!! 助けて!! おねがい!! ドアを開けて!!?」

 「誰を助けてほしいの?」

 背後で桃のぬいぐるみが問いかけてきました。

 その声は酷く可愛らしく、上機嫌です。

 「誰を助けてほしいの? エリ? マイ?」

 背を向けドアを叩くエリに、桃のぬいぐるみは言います。

 

 しばらくして、少し静かになりました。それでも、エリは振り返ることができません。
とにかく、早くここから逃げ出したかったのです。

「ねぇマイおねぇちゃん。エリは、アタシだよ♪」

「ひっ……」

 その言葉に、エリは体を硬直させました。

 すぐ、耳元で、甲高い声が聞こえたからです。

 エリは驚いて、声の聞こえた方を向きました。

 「き、きゃあああああああ!!!!」

 桃のぬいぐるみは、魂の宿っていない、本当のぬいぐるみの様に、静かにエリの肩に乗っていました。

 おもわず桃のぬいぐるみを掴み、投げ飛ばします。

 でも、今度は窓にぶつかったりしませんでした。

 首をがくんと下げ、どこを向いているのか分からない状態で、ふわりと空中に浮いています。

 「ねぇ。マイおねぇちゃん。アタシは死んだわ。
……でも。本当に死ぬべきだったのは、おねぇちゃんよね?」

 「うるさい!!!!!!!」

 エリは桃のぬいぐるみにむかって怒鳴りました。

 途端に、桃のぬいぐるみは床に落ちました。

 とさ、と軽い音をたて、床に落ちました。

 

 

 

 マイとエリは姉妹でした。

 はたから見たら、とても仲良しの姉妹です。

 マイは黒の髪が綺麗なお姉さん。ちょっと釣り眼が特徴の、しっかりもののお姉さんです。

 エリは可愛い妹。黒い髪も、ちょっと釣り眼の瞳も、全部お姉さんとそっくりでした。

 でも、実は仲良しではありませんでした。お母さんからも、お父さんからも、
2人の姉妹は仲良しでしたが、本当は仲良しではありませんでした。

 エリはとっても頭がよかったのです。ずるがしこいと言えばわかりやすい。そんな子です。

 エリは妹という立場を最大限利用しました。

 マイのものは、全部エリのものでした。

 マイは我慢しました。「おねえちゃんだから」という理由でたくさんたくさん我慢しました。

 エリに我慢は必要ありませんでした。お母さんからも、お父さんからも、
「エリはマイと違って可愛いな」と言われました。

 見た目はそっくりなのに、エリは可愛がられていました。

 

 ある日の事です。

 エリが海に行きたい、と言いました。もちろん、お母さんもお父さんも乗り気です。

 マイに選択権はありませんでしたから、当然。満場一致で、海に行くことになりました。

 4人で車に乗り込みます。

 エリの指定席は、後ろの席の左側でしたが、この日ばかりはマイが左に座っていました。

 「いいわ。おねぇちゃんの好きで」

 エリが身を引いて、右側の席にすわると、

 「エリちゃんはえらいわねぇ」

 「エリはちゃんと我慢できるえらい子だ」

 と、お母さんもお父さんも絶賛します。

 私はいつも我慢しているのに……。

 マイは心のなかで思いましたが、そんなことは表情に出さず、精一杯の笑顔でいました。

 皆笑顔でした。車の中での話題の中心は、当然エリです。

 でも、エリのこの笑顔を見たのは、この日が最後になってしまいました。

 海へ行く途中、交通事故に会ってしまったのです。

 突然のことでしたから、詳しくは覚えていません。

 でも、病院で眼が覚めたマイは、心配そうに覗き込むお母さんとお父さんを見ました。

 「大丈夫か?」

 「大丈夫?」

 お母さんもお父さんも、しきりに大丈夫かと聞きます。

 あんまり心配するから、

 「何があったの?」

 と聞き返したほどです。

 「よかった……大丈夫なのね? エリ」

 「え……私は――」

 「よかった。エリは“生きていて”くれた」

 お母さんとお父さんは、交通事故の話をしてくれました。

 そして、

 「いいか、エリ。残念だけど、マイはもういないんだ」

 と言いました。

 「……え?」

 どういうことか分からず、マイはお父さんに聞き返します。

 「エリ。泣くなよ。マイは、交通事故で、死んでしまったんだ。」

 「でも、お母さんはエリが生きていてくれた嬉しいわ。
“エリの方が”死んでしまったら、お母さんショックで倒れてしまいそうだったもの」

 「ちがうわ……私はマイ――」

 「エリ。マイのことは早く忘れような。お父さん。
エリのほしいものならなんでも買ってやるぞ」

 「私は……」

 「エリ。早く元気になって、お家に戻りましょうね? エリの食べたいもの。
なんでも作ってあげるからね?」

 

 ちがう……私は……マイよ……。

 

 お母さん……お父さん……? 私は、マイよ……。

 

 どうして? 私は死んでも良かったの? エリが生きていれば、良かったの?

 

 マイは、その日からエリになりました。

 何度か、マイの話題を出そうとした事もあります。
でも、マイの話をし出した途端、お父さんもお母さんも「マイのことは忘れろ」の一点張りでした。

 何日たっても、何週間たっても、何ヶ月たっても、マイはエリとして扱われました。

 そして、そうしているうちに、マイはエリになりました。

 

 

 

 「まいちゃん」

 桃のぬいぐるみの言葉に、エリははっとしました。

 もう、桃のぬいぐるみは、先ほどのように気味悪く話したりしません。

 元の、泣き虫のぬいぐるみにもどっています。

 「まいちゃん……」

 エリの瞳から、涙があふれました。

 「……ちがう……私は……エリよ……」

 「まいちゃん」

 「ちがう」

 「まいちゃん」

 「ちがう!!」

 エリは大声で否定します。

 それでも、桃のぬいぐるみはエリをエリとは呼びません。

 「僕。間違った。」

 「……?」

 「僕。『たましぃ』を運ぶの。おしごと」

 「……」

 「でも。まちがえた。僕。運ぶの。えりじゃない。」

 桃のぬいぐるみは、静かに言い切りました。

 「僕。まいの『たましぃ』運ぶ。お仕事」

 エリは笑い出しました。

 

 ああ。そうか。そうだったんだ……。

 

 私が死ぬはずだったんだ……。

 

 エリは、声を上げて笑いました。瞳からはたくさんの涙が流れます。

 「おねぇちゃん」

 再び、桃のぬいぐるみから、甲高い声が聞こえました。

 もう、恐くなんてありません

 「おねぇちゃん。交換しよう? おねぇちゃんが良いって言ってくれれば、アタシ。
おねぇちゃんと交換出来る。アタシが、マイおねぇちゃんの体をもらえる」

 エリはにっこり笑いました。

 涙の軌跡が頬に出来ています。

 そして、桃のぬいぐるみをそっと手に取りました。

 「おねぇちゃん。おねぇちゃんの分まで、アタシが生きてあげるわ……」

 桃のぬいぐるみは、静かに、満足げに笑います。

 でも、

 「いやよ」

 エリが影のある笑い方をしました。

 「……え?」

 桃のぬいぐるみから、驚いた声が聞こえます。

 エリは、満足気に笑いました。

 「あげないわ。これは“アタシ”のもの」

 「マイおねぇちゃん?」

 「アタシ。貴女が大嫌いだったわ。ううん。今も嫌い。
貴女はいつでも、マイの物を奪っていたから」

 「……? だから、マイおねぇちゃんが死ぬべきだったのよ。
ね? アタシが、おねぇちゃんの分まで幸せに――」

 「いいえ。死ぬのは貴女よ」

 エリは高らかに宣言しました。

 「アタシ。アタシの名前はエリよ。ね? 可哀想なアタシのマイおねぇちゃん。」

 エリは、甲高く聞こえる、桃のぬいぐるみの喋り方を真似して言いました。

 「バイバイ、アタシのおねぇちゃん」

 

 

 エリは、その日から、エリとして生きました。

 お母さんもお父さんも「やっとマイのことを吹っ切ったのか」「エリは笑顔が一番だわ」と満足気です。

 もう、冷たい視線で物事を見たりしません。

 死んだ、マイの分まで、幸せに生きます。

 

 エリの隣には、いつでも桃のぬいぐるみが居ました。

 桃のぬいぐるみは言いました。

 「ひどいわ……アタシが生きるはずだったのに……死ぬのは、マイのはずだったのに……。
……いいわ……絶対、そのうち交換してもらうんだから……」




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